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2024年12月14日 17時11分

「No more ヒロシマ・ナガサキ」松浦秀人さん、ノルウェーから核廃絶を訴える

「核なき世界」への祈りをノルウェーから世界へ広げる

ノーベル平和賞の授賞式が、今年もノルウェー・オスロで華やかに執り行われました。しかし、その華やかさの裏には、深い悲しみと重い使命感が隠れています。2024年の受賞者である「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)の代表団として、愛媛県松山市から参加した松浦秀人さんの存在が、その象徴とも言えるでしょう。

松浦さんは、広島に原爆が投下された際、母親の胎内で被爆した「胎内被爆者」です。その生い立ちは、核兵器が生む悲劇の一部を語るものであり、彼自身の人生は、まるで核兵器がもたらす影のように続く苦悩と不安に彩られています。

原爆の影響が刻む人生

松浦さんの人生は、原爆の影響を受け続けてきました。幼少期からの漠然とした不安、そして遺伝的な影響を心配する大人になってからの葛藤。彼が語る「核兵器は時間と空間を超えて人間を傷つける」という言葉は、単なるスローガンではなく、自身が生きてきた苦難の歴史そのものです。

松浦さんが最初の子どもを授かる際の不安は、彼だけのものではありません。胎内被爆者としての彼の経験は、核兵器がもたらす長期的影響の一例を示しています。松浦さんが語る「結婚や子育てに対するためらい」は、核兵器が持つ恐ろしい影響力を象徴しています。

「No more ヒロシマ・ナガサキ」の叫び

今回のノーベル平和賞授賞式で、松浦さんは「No more ヒロシマ・ナガサキ」と訴えました。彼の訴えは、単なる過去の悲劇の記憶を共有するだけでなく、現在の国際情勢における核兵器使用の危険性への警鐘でもあります。ウクライナやガザの情勢を背景に、核兵器が再び使用される可能性がある今、この訴えはより一層の重みを持っています。

松浦さんは、ノルウェーでの授賞式だけでなく、オスロ大学での講演でも「核兵器は人類とは共存できない兵器だ」と強く訴えました。その声は、約400人の学生たちに届き、大きな拍手を受けました。講演後に学生たちから求められた握手や写真撮影は、彼のメッセージが若い世代に響いた証拠と言えるでしょう。

被爆体験の語り部としての使命

松浦さんは、被爆者としての体験を語り続けることを使命としています。彼が「最年少の被爆者」として活動を始めたのは1977年のこと。被爆者健康手帳を取得してから、彼は被団協に参加し、語り部としての活動に力を注いできました。彼が伝えるのは、自身の経験だけでなく、母親から聞いた凄惨な被爆の光景です。これらの語りは、時代を超えて核兵器の恐ろしさを伝える貴重な記録となっています。

しかし、語り部の数は減少の一途をたどっています。松浦さん自身も79歳となり、その活動には限界があります。それでも彼は「命ある限り、核なき世界を訴え続ける」と決意を新たにしています。この姿勢は、彼自身の信念だけでなく、次世代に平和の重要性を伝える責任を背負っているからこそでしょう。

未来への希望と課題

松浦さんたちの活動は、未来への希望を生むと同時に、多くの課題を浮き彫りにしています。核兵器禁止条約に参加していない国々に対する働きかけや、次世代への語り継ぎ方の工夫など、まだまだ解決すべき問題は山積しています。しかし、彼らの活動がノーベル平和賞という形で評価されたことは、核兵器廃絶運動の一歩として大きな意味を持っています。

松浦さんの活動は、愛媛から世界へ、そして未来へと続いていくでしょう。彼の切実な願いは、今こそ世界中に響かせるべき重要なメッセージです。核なき世界を夢見る彼の声は、私たちすべての未来への呼びかけとして、絶え間なく響き続けるでしょう。

[伊藤 彩花]

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