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2024年12月26日 13時11分

古舘寛治主演『逃走』、50年の逃亡者を描く

古舘寛治主演映画『逃走』で描かれる、半世紀に及ぶ逃亡者の物語

1970年代、日本の社会運動が高揚し、新左翼過激派集団が活動を活発化させていた時代。その中心にいた一人の男、桐島聡。彼の波乱万丈な半生を描く映画『逃走』が、足立正生監督の手によって2025年3月15日に公開されることが決定しました。映画は、逃亡生活を続けた彼の内面に深く迫りながら、1970年代の社会的背景と個人の葛藤を描き出します。

「内田洋」としての半生

桐島聡は、かつて東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバーとして、企業爆破事件の容疑者として指名手配されました。彼は偽名「内田洋」を使い、約50年にわたり逃亡生活を続けます。その間、日雇いの仕事を転々としつつ、神奈川県藤沢市内で工務店に住み込みで働きました。この生活は、まるで昭和のブルースが流れるバーに足を運び、ひっそりと音楽を楽しむようなものでした。彼の人生の一部は、時代の音楽と共に流れていました。

この映画は、彼がどのようにして社会から逃避し、何を求めていたのかを深く掘り下げます。逃げ続けることは、まるで終わりのないマラソンのようであり、彼の旅は常に孤独が付きまといました。桐島の逃亡は、社会の欺瞞や変わらぬ現実に対する一種の抵抗でもあったのかもしれません。

逃亡者の心の奥底

映画『逃走』は、桐島が偽名で生きることを選びながらも、桐島聡としてのアイデンティティをどのように保ち続けたのかを描きます。彼の中で、内田洋としての生活と桐島聡としての自分はどのように折り合いがついていたのでしょうか。これは、現代の私たちにとっても身近なテーマです。私たちは、日々の生活で仮面をかぶり続けることがありますが、本当の自分はどこにいるのでしょうか。

桐島は逃亡生活の果てに、病院のベッドで自らの死を予感しながら「私は桐島聡です」と名乗りました。この瞬間、彼は逃亡者としての自分を捨て、本当の自分に回帰したかったのかもしれません。足立監督は、この瞬間を「映画でしか描けない」と述べていますが、それは映画という媒体が持つ力を最大限に活かした表現です。

映画を通じた社会的メッセージ

『逃走』は、ただのエンターテインメント作品ではなく、社会的なメッセージを含んでいます。1970年代の日本は、学生運動や労働運動が活発化し、現代社会に対する批判的な視点を持った若者たちが多く存在しました。桐島聡もその一人であり、彼の人生はその時代背景を色濃く映しています。彼が追い求めた「革命」は、彼の生き方そのものであり、現代社会においてもその意義を問う必要があるのかもしれません。

足立正生監督自身も、日本赤軍として活動し、長年にわたって日本を離れていた経歴を持ちます。彼が描く桐島の物語は、単なるフィクションではなく、彼自身の経験や視点が色濃く反映されています。映画制作において、監督自身の人生や思想が作品にどのように影響を及ぼすのか、その点も見どころの一つと言えるでしょう。

観る者に問いかける作品

『逃走』は、観る者に多くの問いを投げかける作品です。私たちは何を求め、何を逃れるために生きているのか。そして、逃れた先に待っているものは何なのか。桐島聡の半生は、ただの逃亡者の物語にとどまらず、普遍的な人間の問いに対する一つの答えを提示しています。

この映画は、過去の出来事を通じて、現代社会に生きる我々に対するメッセージであり、問いかけでもあります。ぜひ、スクリーンを通して桐島聡の人生を追体験し、その深いテーマに思いを馳せてみてください。

[佐藤 健一]

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