国内
2024年12月07日 09時41分

昭和東南海地震80年後の教訓がXで語り継がれる

昭和東南海地震80年後の教訓を振り返る

1944年12月7日、熊野灘を震源とする昭和東南海地震は、戦時下の日本に大きな傷跡を残した。マグニチュード7.9という巨大な地震は、三重県、愛知県、静岡県に甚大な被害をもたらし、1200人以上が命を落とした。しかし、戦争中であったため、政府は被害の詳細を公表せず、「隠された地震」とも呼ばれている。80年が経過した今、当時の体験者たちの証言と記録が、次の世代への重要な教訓として語り継がれている。

戦時下で「隠された」悲劇

昭和東南海地震の被害は、戦時中の報道管制によりほとんど公にされなかった。被災地の人々は、戦争と自然災害という二つの困難に直面し、復興への道のりは困難を極めた。愛知県碧南市の震災復興記録によれば、地震の翌日から食料の配給が始まったが、これは戦時中の非常事態対応が功を奏したとも言える。戦争の非常時対応が地方自治体に浸透していたため、迅速な支援が可能だったのだ。

個人の記憶が繋ぐ歴史

三重県南伊勢町では、小山厚さんが当時6歳で被災し、後年、幼少期の体験を手記に残している。彼の祖母が叫んで避難を促したことで命拾いし、手記にはその恐怖と避難の様子が生々しく記されている。「井戸水が干上がっている。これは大きな津波が来る証拠や、早く逃げやないかん」という祖母の言葉が、命を救った。

また、熊野市新鹿町では、山田智一さんが地域の被災状況を記録した「新鹿の津波」という本を出版し、地域の教訓を後世に伝えることに尽力した。こうした個人の努力が、次世代に貴重な災害の教訓を伝える役割を果たしている。

不思議な縁が紡ぐ人々の物語

さらに、津波から祖父を救った恩人の存在を知った東直樹さんの話も興味深い。彼の祖父は、隣人の長井幸夫さんに背負われて高台へ避難し、命を救われた。長井さんはその後、戦艦「大和」に乗り、戦死したが、80年後にSNSを通じて、東さんと長井さんの親類が繋がった。こうした縁が、歴史の中で忘れ去られることのない人間の絆を再確認させてくれる。

未来への備え

昭和東南海地震と震源が重なるとされる南海トラフ地震は、近い将来に発生する可能性が指摘されている。南伊勢町では、津波の高さが最大12メートルに達すると予測されており、住民は日頃から「手ぶら避難」や避難路の整備を進めている。小山さんが今もなお枕元に着替えを用意するように、個々の防災意識が、将来の被害を最小限に抑える鍵となるだろう。地震は忘れたころにやってくる、という格言があるが、備えを忘れず、過去の教訓を未来の安全に活かすことが求められている。

80年前の「隠された地震」は、今もなお多くの人々に語り継がれ、未来への警鐘として響き続けている。

[佐藤 健一]

タグ
#教訓
#昭和東南海地震
#防災