日本被団協の挑戦と石破首相の「核共有」構想:核兵器廃絶の未来を問う
日本被団協の歴史と未来を考える:核兵器廃絶への道筋
1956年に結成された日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、まさに核兵器廃絶運動の生きた歴史そのものです。「再び被爆者をつくるな」という切実な願いを掲げ、核兵器の廃絶と原爆被害への国家補償を求めて活動してきました。この組織は単なる被爆者の団体ではなく、核廃絶の国際的な声を代表する存在として知られています。
70年代後半からは、国連などの国際フォーラムでも核廃絶の重要性を訴え続け、核兵器禁止条約の成立に向けた推進力となりました。しかし、長年の活動の中で直面しているのは、被爆者の高齢化と財政的な困難です。全国に存在していた被爆者団体のうち、11県がすでに解散しているという現実は、組織の存続に暗い影を落としています。
石破首相の「核共有」構想と日本被団協の反発
一方で、現在の日本の政治情勢も核問題を巡って複雑化しています。石破茂首相が提唱する「核共有」構想は、国際的にも国内的にも大きな波紋を呼んでいます。この構想は、アメリカとNATO諸国が冷戦時代から行っている「核共有」の体制をアジアにも導入しようというものです。
「核共有」とは、アメリカがヨーロッパのNATO加盟国に核兵器を配備し、必要に応じてその国のパイロットが使用できるという制度です。これに対しては、核不拡散条約(NPT)に違反するとの批判が根強くあります。石破首相の構想が実現すれば、自衛隊のパイロットがアメリカの管理下で核兵器の使用訓練を受けることになる可能性があります。
日本被団協は、この「核共有」構想に対して強く反発しています。被団協の代表者たちは、ノーベル平和賞の受賞が決まった直後の記者会見で、石破首相の提案に対する怒りを表明しました。彼らにとっては、核兵器の廃絶こそが目指すべき道であり、核の所有や使用を認めることは、彼らの信念に反する行為だからです。
冷戦時代の遺物としての「核共有」
「核共有」は、冷戦時代の遺物とも言える制度です。当時、旧ソ連に対抗するために、西ヨーロッパに多くの核兵器が配備されました。これらはアメリカの管理下にあり、戦争が始まればアメリカの承認のもとで使用されることになっていました。この制度には、ヨーロッパ諸国が独自に核武装することを防ぐという側面もありました。
しかし、冷戦が終結してから30年以上が経過した今、このような古いシステムが本当に必要なのか、という疑問が生まれます。特に日本のような被爆国がこの体制に参加することは、国際社会だけでなく、国内の平和主義者にとっても受け入れがたいものです。
これまで、日本は「非核三原則」を国是として掲げてきました。非核三原則とは、「持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の国是であり、核兵器の排除を目指す姿勢を示しています。この原則がある限り、「核共有」は日本の政策として実現するのは難しいでしょう。
核廃絶の未来に向けて
日本被団協の活動や核廃絶への取り組みは、被爆者の高齢化や財政的な困難を乗り越えながら、次の世代に引き継がれるべき重要な課題です。彼らの声は、核兵器の非人道性を訴える生きた証言として、国際社会においても大きな意義を持っています。
石破首相が掲げる「核共有」構想は、核抑止力の一環としての考え方かもしれませんが、核兵器の廃絶を願う多くの人々にとっては受け入れがたいものです。冷戦時代の発想から脱却し、現代の安全保障を再考することが求められています。
核兵器のない世界を目指すという目標は、簡単に達成できるものではありません。しかし、被爆者たちが歩んできた道のりや、彼らが訴えてきたメッセージは、これからの未来に向けて重要な示唆を与えてくれるでしょう。それは、新たな被爆者を生まないための道筋であり、平和を築くための基盤となるはずです。
[鈴木 美咲]